岡空小児科医院
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▲20年間ありがとう!
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惜別の言葉
 皆様がたからの心のこもった温かいお言葉を頂戴して、本当に感謝に堪えません。 故、岡空浩の葬儀も滞りなく、無事に終了いたしました。 通夜、出棺、告別式にも多数参列していただき、心から感謝申し上げます。 また、たくさんの弔電、献花もいただき、まことにありがとうございました。 故人もとても喜んでいるだろうと思います。 皆様のご厚情に際し、心から御礼申し上げるとともに、故、岡空浩(おかそらひろし、享年21歳)の人となりにつきまして、簡単に述べさせていただきます。


写真 浩は私、岡空輝夫と妻、智美(さとみ)との間に、昭和62年6月25日に生まれた次男です。 妊娠37週になり、エコー検査で先天性の横隔膜疾患(横隔膜ヘルニア疑い)が見つかり、鳥取大学医学部付属病院で、帝王切開で出生しました。 出生直後は呼吸状態も安定していましたが、出生当日に緊急手術(最終診断は先天性横隔膜弛緩症?)を受け、その後は経過良好であり、3週間あまりの入院で退院しました。 以後は智美の母乳ですくすく成長し、翌年の4月には私の仕事の関係(内地留学)で、新潟市(信濃川のほとり)で1年間を過ごし、その後は再び米子へ帰り、3歳までは米子で暮らしました。 幼稚園の3年間と小学校の1年間は、私の仕事(鳥取県立中央病院勤務)のため、鳥取市で暮らしました。 幼児期は滲出性中耳炎+アデノイドのため、たびたび耳鼻科の先生にお世話になり、両鼓膜へのチュービングとアデノイド切除術で、中耳炎は治癒に向かいました。 
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写真 小学校2年生と3年生の1学期は私の鳥取大学医学部小児科への復帰に際し、米子の小学校へ転校しました。 彼はとてもプライドの高く、他者には(両親に対しても)決して弱みを見せない性格でした。 一方では年上の人へは人当たりがよく、周囲の大人にはとても可愛がられました。 そんな性格が災いしたのか、小学校3年生の1学期は全く教室へは入れず、校長室登校となりました。 校長室では校長先生と将棋を良くしていたようです。 校長先生へは本当に感謝申し上げます。 そんな中にあっても、負けず嫌いながんばり屋さんでしたので、勉強だけはきちんとやっていたようです。
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写真 小学校3年生の2学期からは岡空小児科医院開設に伴い、境港の小学校に転校しました。 転校後は、多少休み癖は残っていましたが、元気に登校できるようになり、新しい友人も増え、4年生からは境小学校少年野球クラブに入部し、私も中学校野球部キャプテン、大学でも野球をしていましたので、コーチとして小学校4年生〜6年生の3年間は浩と私の関係はとても濃厚な3年間でした。 彼は運動能力が特に優れていたわけではありません。 ただ、プライドの高い努力家でしたので、とにかく一生懸命練習しました。 練習後はぐったりして、暗くなって帰ってきては玄関で30分ぐらい休息していたのを今でも思い出します。 5年生からはセンターで8番のレギュラーとして、試合に出場し、非力でしたが、声とバントだけはチーム1、守備は堅実であり、たまに思いがけないヒットを打つ意外性のある野球少年でした。
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写真 中学校に入ってからは、なぜかもっとも大変なバスケット部(+駅伝部)を選び、果敢に挑戦しました。 無理がたたったのかなあ? 中学校2年生の1学期に、初めてのけいれんを自宅で起こしました。 強直性〜間対性の全身性けいれんでした。 近くの総合病院受診し、「特発性てんかん」の診断のもと、抗けいれん薬(パルプロ酸)での治療が始まりました。 その後はけいれんもなく、落ち着いていましたが、勉強、病気のことなどで悩んだのでしょうか? 2年生の12月には突然自室に引きこもり、私たち家族にとってはとても堪え難く長かった55日間という、自己修行?を行いました。 そんな家族の心配を知ってか知らずか、56日目にこつ然と現れ、「ぼく、もう大丈夫だけん!」とあっさり言いました! 結局、2年生の3学期は全休となりましたが、3年生になってからは、まさに心機一転、部活(主にスコアラー)と勉学に励み、翌年には鳥取県立米子西高等学校数理科に進学しました。 高校入学後はますます勉学に励み、成績も急上昇しました。 米子の高校ですので、塾がある夜は遅くなるため、私自身が何度か迎えにいきました。 帰りの車中では、高校での生活について、いろいろ語ってくれました。 今となってはとても懐かしい思い出です。 が・・・またまたがんばり過ぎました! 2回目の全身けいれんを今度は塾で起こしました。 その後は、睡眠時間を確保するという約束もあり、勉強時間の制限が加わり、服薬もきちんとしていましたが、発作の回数も年に1〜2回あるようになりました。 多分本人の希望は医学部進学だったと思っていますが、私の勤務医での生活を知っていたのでしょう! 生活が不規則になりがちな医師よりも、多少とも規則正しい生活ができやすい薬剤師への道を選んだようです。
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写真 昨年の4月には、薬剤師国家試験合格率第1位の福山大学薬学部へ進学しました。 もちろん、親としてはひとりでの生活に不安がなかったわけではありません。 誰もいない自室でけいれん発作を生じ、しかもけいれん重積であれば・・・いやいや、そんなことは滅多に起こることではないだろう!と希望的観測で否定する私自身がありました。 学生生活はとても楽しいようで、帰省のたびに妻に、少しは私に友人たちとの楽しい日々を語ってくれていました。 ただ、心配なことに、大学入学後は帰省中には朝方に必ずと言っていいくらい発作を生じるようになり、今年の5月からはデパケンに加えて、マイスタンの内服が始まりました。 6月に麻疹騒ぎで一度帰省してきましたが、その時も発作があり、マイスタンを増量しましたが、6月末頃からマイスタンの副作用と思われる強い眠気と記憶力減退が生じはじめ、親へも滅多に弱音を吐かない浩が、助けを求めるようになってきました。 大学はどうでもいいから、帰ってくるようにたびたび忠告しましたが、彼のプライドが許せなかったのでしょう。 頑として、帰省を拒みました。 7月には心配になり、一度妻と一緒に福山まででかけましたが、本人は「大丈夫!」の一言で、連れてかえるのは断念しました。 1学期のテストはほぼ全滅でした!
 妻とも相談した結果、夏休みに静岡てんかんセンターへ入院精査としました。 お盆期間を利用して、短期間でしたが4日間入院しました。 結論は大きな異常なし! いわゆる特発性てんかんの診断で、けいれんとは仲良くしていくしかないだろう! 眠気と記憶力減退はマイスタンの副作用だろうから、少しずつ減量しようということで、本人および私も納得しました。 9月以降は少しずつ本人も元気になり、福山に行きました。
 10/18(木)の夜に浩から電話があり、妻とは1時間あまりしゃべっていました。 私はインフルエンザの講演会があり、帰宅後に長電話だぞ!と釘をさして、電話を切らせました。 今、思えば、電話に代わってやれば良かったなと悔やんでいます。 翌日は自宅にいたようで、昼過ぎまではパソコンの操作歴があったようです。 その後は音信不通となり、10/22(月)になり、実習に出てきていなかった浩を慮った友人たちがアパートを訪ねてくれて、管理人さんにあけてもらって、部屋に入ると、布団の上でうつぶせになったまま息絶えていた浩を発見してくれました。 救急車を手配してくれたようですが、死後数日経過しており、あとは変死体ということで、警察での死体検案で、「けいれん重積による窒息死」という検案書をいただきました。

その後のことは頭が混乱して、パニックでした!
いま、葬儀もおえ、少しずつではありますが、日常生活に戻りつつあります。 彼に言える言葉はこれしかありません! 『20年間、本当にありがとう!』

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