ガイナーレ通信
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▼山崎 邦夫 【前を向いて】
頼れるキャプテン。左サイドからの攻撃参加は絶品。
 変革の年だった2003シーズン。キャプテン山崎邦夫もまた、SBにポジションを移し、 夏にはJFL選抜に選ばれるなど、常に挑戦し続けた1年だった。温厚で真面目、チームを精神面から支えるキャプテンの 「これまで」を振り返りながら、キャプテンとガイナーレの「これから」、2004シーズンをしっかりと見据えたい。

写真じゃ、まずは生い立ちから・・・

え?生い立ちから(笑)?・・長いなぁ。そういう企画だったっけ?

いつの頃からか(笑)。とりあえず・・出身は?

出身は鳥取市。駅の近く。近くと言っても、県庁とかとは反対側の鳥取市民体育館がある方で、バードも中学校の校区だし、 駅も中学校の校区。

サッカーを始めたのは?

チームとして始めたのは小学校の5年生。僕らのところはスポ少(スポーツ少年団)じゃなくて、小学校の部活動みたいな感じで、 学校の先生が監督だった。遊びではいつもしていたね。1コ上の兄貴がいて、似たようなときに始めて、一緒に遊んでた。

中学、高校もサッカー部?成績は?

そう。鳥取東はね、県内でベスト4が最高かな?国体の選抜チームに入れてもらって、伸とかは1コ下になるんだけど、 年代別に選ばれるようなときは同じチームになったりして、ちょっと知ってた。僕らのときからね、県西部の方が強かった。 僕の代で東部から選ばれたのは僕1人だけ。1コ下は健太(現鳥取KFC)だけだったし、1コ上はGKの小林くん(現鳥取KFC)、 その上はうちの兄貴だけで、東部から1人であとは西部の選手って感じだった。米工や米北や米東や・・。

サッカーの人気は?県東部はサッカーが盛んじゃないってことはないでしょ?

うん。サッカー自体は人気がある。今もそうだけど、小学生とか中学生とかの指導者のレベルとか数とかに差があるんじゃないかな。 サッカー人口で言えば、東部の方が多いかもしれない。

大学は?

大学は福岡教育大学。

その頃から、学校の先生になることを決めていたの?

う〜ん(笑)。子供の頃から「将来の夢は?」みたいなのに書くときは、いつも学校の先生かサッカー選手って書いてた。 サッカーは好きだったし、目指すところはそこだろうって思ってた。先生というのはね、僕のお父さんも先生をしてて・・ 工業科で高校の教諭をしている。それを見ていたから・・。 部活の顧問をしていて、柔道部とかの合宿について行ったりしていた。うちのチームでスタッフの子供が来てるみたいな感じ(笑)。 ちょこちょこちょこちょこ動き回ってた(笑)。

福岡教育大学のサッカーは?強い?

今年、天皇杯に出てたね。うちらの頃からJにも行くようになったし・・。

大学時代にJへの話があったと聞いてるけど?

あ〜うん。「練習に」という話はあった。結構、Jのチームと練習試合をすることがあって、そこの監督さんに見てもらったりして、 「練習に」とかって言われたことはあった。でも、そんな詰めた話があった訳じゃないし、正式な話はしなかったね。

Jに行こうとは思わなかった?

その頃はね、あんまり自信もなかった。やりたいという気持ちはもちろんあったけど、 それよりも鳥取に帰って指導をしたいって気持ちが強かった時期だったね。

じゃ、大学を卒業したら、すぐ地元に?

うん。すぐ帰ってきて、米工に勤務っていう連絡があった。教員をしながらサッカーをやるつもりで、東部で勤務するんだろうなって 何となく思ってて、キッカーズに入ろうって思ってた。そうしたら米工で、米工の先生方も僕が来ることを知っていて、 「こっちでやるならSC鳥取でやらないけん!」って尾形さんとかにも話をしてたみたい。米工に挨拶をしにきたら、 「もう話はしてあるから」って(笑)。「え!?」って(笑)。それが最初だった。

入ったときの印象は?

入るまでは中国リーグがどんなのかっていうのも全然知らなかった。やってみて、できるなって思ったんだけど、 チームとしても11人そろって練習することがなかったし、練習もゲームして終わりっていう感じだった。 1年目は上のことなんて考えたことがなかった。勝っていくとどうなるとかっていうのもわからなかった。

JFLを意識し始めたのはいつ?

僕が入って最初の年は中国リーグで5位だったんだけど、上位のチームとやっても、そのときは勝てなかったんだけど、 別に相手が強いわけじゃないって感じがあって、練習をちゃんとやれば勝てるんじゃないかって話になった。 そこから漠然と頑張ろうと思い始めた。JFLを目指してとかじゃなかったけど、何曜日に練習があるから、ちゃんと集まって・・とか、 ちょっとずつだけど頑張ろうという意識がチーム内で芽生えて、で、頑張った分は結果として少しずつ出てきた。あとは勢いかな。

その年にJFL?

そう。入って2年目に優勝して、決勝大会。そのときもまだ勝ったらどうなるとか全然考えてなかった(笑)。 でも、ガタさん(尾形代表)とかは意識していたんじゃないかな。ただね、勝てると思ってないし、準備も全然。 チームとしても何となく入った大会だったんだけど、そこでも全然歯が立たないって感じがなくて、やれるっていう意識があったから。 予選リーグがあって、決勝に残った4つが上がれるらしいよって(笑)。大会中に聞いたのかな?確か。

実際にJFLに上がれるってことになって、どうでした?

「え〜どうなるの?」っていうのはあった(笑)。「お金?どうするだ?」みたいなのもあったけど、チャンスだし、 2度とないかもしれないからやってみようって。不安もあったけど、進むことに変わりはないってみんなわかってたし、 これをプラスにしていった方がいいって思ってた。最初の年の1月から3月は練習よりもビラ配りが大変だったね(笑)。 商店街にもたったし、やよいのとこにも行ったし、まずはそこからだったね。


写真JFLに入ってからは1年目、2年目と厳しい戦いを重ねて・・

厳しかったねぇ・・(笑)。JFLに入ってからは、練習にフィジカルトレーニングが入るし、戦術のミーティングも入ってくるし、 チームの雰囲気もどんどん変わっていくし、それに慣れるので精一杯だった。メンバーによっては、仕事とかでそれに合わせきれなくて 、練習に参加ができなかったりっていうのがあった。でも、その中でメンバーも成長できたと思う。今いるコバにしても、伸にしても、 経験を積んできているから出来ていることがある。勝てなかった時期を知っているし・・なかなかあれだけ負け続ける経験ってのはね(笑)。 サッカーをやっていてね、ないと思う(笑)。それはそれでいい経験になった。義夫たちもね、最初の年に入団して、すごくビックリしたと思うよ。 それでも頑張ってトレーニングをして、今では「昔からずっと米子にいたんじゃないの?」ってくらい溶け込んでる。 県外からの選手が入ってくるっていうのも、そこから始まったし、1年目はすごく苦労をした年だったけど、スタートという意味では すごく意味のある年だったと思う。

2年目は?残留がかかっていて大変だったと思うけど・・

あれは盛り上がったよね(笑)。Jでもそうだけど、あそこになるとスゴイよね。サポーターもそうだし、選手も。 選手はすっごいストレスを感じてたね。職場もそうだし、練習も。まぁ山本さん(前監督)が1番大変だったと思うよ。 あの最後の試合の喜び方が全てを物語ってる(笑)。今は「髪がちょっと増えたんじゃない?」って言ってるからね(笑)。 すごいプレッシャーだった。でも、それだけ注目されているんだって嬉しい気持ちもあったね。

最初の年にビラ配りをしていた頃と比べて、周りの環境は変わった?

うん。最初はね、選手も周りも興味本位というか何のことか良くわかってなかった。サポート会員にしても、何かわからんけどって 入ってくれた人が多かったように思う。それがだんだんだんだん、いろんなテレビとか新聞とかに取り上げてもらえたりして、理解をしてもらえて、 見られ方も変わってきたかなと思うね。

3年目は?塚野さんが監督になって、チームの雰囲気も変わったと思うんだけど・・

中国リーグの頃から塚野さんはずっと練習のときに「こうした方がいい」とか言ってたし、僕らにとっても難解なことを言われている訳じゃなくて、 言ってることは前から変わっていないから、僕らとしてはやりやすい。新しいメンバー、特に県外のメンバーが入ってきて・・ 1番いいのはチーム内で競争が出来るってことだよね。選手としてはもちろん大変なんだけど、チームとしてはプラスになることで、 試合に出られるか出られないかっていう競争をしているとお互いに成長できる部分がやっぱりあるよね。 そういうのも含めて、成長があった年だった。

山さん自身は?今年はポジションがSBで、右だったり左だったり・・

サイドが変わるのは、あんまり・・ない方がいいかな(笑)。同じ仕事をしているようで、右と左では全然違うんだよね。 こなしているつもりでもちょっとしたズレがあったりしてね。あと、これまでは1コ前のポジションだったけどね、SBになって、 攻撃参加という自分の持ち味にもう1コ仕事が増えて、最終ラインを守って、時には中にも入ってノブ達のところまで行ってっていう、 そこらへんでまだ掴みきれてない。もっと練習をしないと。実は1年目もいろいろなポジションをやったんだけどね、選手が揃わなくて(笑)。

チームとして2003シーズンは戦えた年でした?

そうだね。ゲームをする度に課題が出来て、そこを塚野さんが修正点として練習に取り込んで、すごくポイントを絞ってやってくれたから、 選手としてはすごくやりやすかったですね。まぁそれぞれに「ここはこうしたい」っていう考え方があるんだけど、 チームとしてやることは役割がはっきりしてた。約束事を破って、挑戦していったことでたくさん点が取れたという部分ももちろんあるんだけど、 チームとしての戦い方が浸透してからは安定して、すごく戦いやすくなった。

練習と言えばね、今年は変わった練習がありましたね。

ああ、火曜日の。あれは陸上の専門の方が来られて、最初は「え!?」って思ったけど(笑)。無駄のない動きを作るトレーニングで、 やっぱり綺麗なフォームで走った方が速いと思うしね。効果の方はね、「足が速くなった」っていう選手もぼちぼちいる。 「ホントか!?」ってヤツもいるけど(笑)。でも、ああいうちょっと視点を変えたトレーニングがあると、気分も変わっていいですね。

さて、いよいよ4年目ですが、今年はどうなるんでしょうね?

選手の入れ替えもあって、まだどんなチームになるかはわからないんだけど・・去年の終わりぐらいからかな?このチームでもっと練習して、 コミュニケーションもしっかりしたら、もっと面白いサッカーが出来るってずっと思ってた。自分自身のプレーももっと練習をして、 成長していける部分があるし、やりきれてない部分が大きくて天皇杯でもそれで負けちゃったから、そこのところを修正して・・ できれば今のメンバーにたくさん残ってもらって今年も一緒にやりたいと思ってますね。

目標はありますか?

個人的にはね、もっとサッカーを理解して、もっと上手くなれると思うし、プレーでもそれ以外の部分でもチームを引っ張っていけるように 頑張っていきたいと思ってます。

仕事との両立も大変だけど・・

そうですね。でも、サッカーをやっているから、仕事が出来ないというのではいけない。そういうのはあっちゃいけないと思う。 職場でもそれぞれに役割があるだろうし、その役割を果たした上でサッカーをやるっていうのがうちのチームだと思う。 それができないようじゃサッカーでも責任を持ってプレーができないだろうし・・って、なんか生徒に言ってるみたいだね(笑)。 「勉強できんもんがサッカーができるか!」って(笑)。ま、両方を一生懸命にやると体にも精神面でも疲れが出るし、 そこのところのストレスを上手に発散する方法を考えないとね。そのへんで大学を出たばかりの選手は大変だと思う。 生活環境が変わるとそれだけで疲れるだろうし、そういうところをチームとしてもチームメイトとしてもサポートして いかなくちゃいけないと思う。前監督が言ってたんだけど、「強い集団にならなくちゃいけない」って。 強い集団になって、強いチームになる。そこらへんも新しいシーズンに向けての課題ですね。そこを克服できると、 競った試合もモノにできるかもしれない。去年惜しくも敗れてしまった相手に勝てるかもしれない。 サッカーは集団のスポーツだから、技術だけじゃなくて、そういうへんでもチームリーダーとしてみんなを引っ張って行けるように なりたいと思います。

最後にサポーターのみなさんにメッセージを・・

期待はね、すごく大きいと思う。毎年毎年、期待は大きくなっていくと思う。特に成績面でね。 選手としても1つでも上にいきたいし、やる試合は全部勝ちたいと思っているんで、一緒に気持ちで戦っていけたらと思いますね。 1シーズンが長いから、勝ったり負けたりもあるし、連敗することもあるかもしれないけど、そういうところでも 選手もサポーターも下を向かずにやっていきたいですね。そういう感じで・・

温かく(笑)?

そう、温かく(笑)。でも、厳しい目も必要だしね。選手はそれにピッチで応えればいいことだから。ただチームにとって愛情を持ってね、 お互いに頑張って行ければ、いい結果がついてくると思うんで、今年もよろしくお願いします。頑張ります(笑)。


写真 キャプテンの言葉1つ1つが新しいシーズンへと向かっている。 昨日は今日へ、今日は明日へと続いている。2001、2002、2003と厳しいシーズンを戦い抜いてきたことが 2004年のシーズンにちゃんと繋がっていくはずだ。 キャプテンのさらなる飛躍がガイナーレをより大きく、より高い空に導いてくれると期待している。

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